私の話

昔から文章を読むのは好きでした。

幼少期は近所の図書館の児童書コーナーにある本を片っ端から読み漁り、小学生では学級文庫にあるキノの旅を読み、ラノベ文化の原初に触れたり、ハリーポッター、ダレンシャン、デルトラクエストなどなど、みんなが好きなやつを読了してまいりました。バーティミアスとか。バーティミアスは見た目がごつく分厚いのですごい読了感がつよかったのを覚えています。読了感の良さといえば、終わりなき物語はてしない物語なんかはいまだに読み終えたあとの満足感を思い出せます。というか書きながら思い出しました。

中学の時はもう東野圭吾を熱心によんだなと記憶しています。バカみたいな(中学生なんてバカしかいないとは思いますが)話ですが、私は東野圭吾作品の一部の官能表現からエロ成分を摂取していたのです。話は変わるのですが2010年代初期は、思うにインターネットはまだ万人のものではありませんでした。ガラケーの時代。今のように大人から子供まで全員がスマホをもっている、という時代のほんの少し前。各家庭にパソコンが1台あり、それをもってインターネットにつながる。下手にガラケーでネットに触れるととんでもない通信費が飛んでくるなんてそんな時代だったと記憶しています。なぜこんな話をするかというと、私の中学生時代にはエロスが著しく制限されていたのです。今はスマホで検索すれば当たり前のように違法アップロードされたAVが見られる時代でありますが、当時の私がエロ動画を見ようと思うと、家族が全員アクセス可能な場所にあるパソコンを使うしかなかった。まあ、このくだらない話は別の機会にしたいところです。

ともあれ、中学生の私は、小説などの官能表現を得るために、大量の本を読んでいました。海堂尊先生の本なんかもよく読むと、あ、ここエロイぞ、とかそんなくだらないことを頑張っていました。

高校になると状況が一変します。2013年に、私が思うに日本のインターネット事情に大変革をもたらしたのではないかという商品がアップルから発売されました。iphone5シリーズです。LTE通信は、どこでもインターネットという熱狂をもたらした。その恩恵、余波は当然私にも来ました。家庭の事情的に、高校生になったら携帯電話をもってもいいんじゃない?という暗黙のルールがあったので、高校入学と同時に携帯を与えられたのはいいが、それがiPhoneであった。このことは私にとっていいことだったのかわるいことだったのか、いまだに判断がつかないところです。

本筋に戻しましょう、携帯を与えられたことで個人でのインターネットへのアクセスを得た私の読書事情は大きな変革を迎えました。そも、エロ成分はスマホから供給される。では何のために本を読むか。読まないでいいじゃないか。だがなんとなく文章がよみたい。そういえば、パソコンでインターネットに触れていた時代にあまり多くの時間をさけなかったことがあるな。ネット小説だ。

はい、明確に出会ってしまいました。小説家になろう、です。当時も今と相も変わらず転生系が流行り(いまの流行は転生よりはパーティ追放?もう追いかけれていません)、というか転スラが現役で連載していたような記憶があります。また蜘蛛ですが何かをダンジョンに籠っている時代から追いかけ、あっという間にランキングを上り詰めていき、あの世界の謎が解けていく興奮にリアルタイムで立ち会えてそれを楽しめたのは非常に良かったです(小並感)。

なろうを読むようになり、現物の本はかなり遠ざかり、まともな読み物を咀嚼する能力がどんどん落ちていくのは自覚しつつも、なろうをなんとなくあさるのはやめられず、なろうを読んでいる時間が多すぎて学業不振にも若干陥り。そんな高校時代を過ごしました。

大学生の今は、無駄に膨大な時間はあるが、昔のようにミステリーを読むのはつらいし、かといって中高生向けファンタジーは読む気にならんしと、あまり本を読まなくなってしまいました。というか最近のミステリ、出来のいいラノベみたいなのがしれっと混じってたりしてなんかあんまり重厚感がないなあとかいろいろ思ってしまいます。そも、昔のように本を読む体力がもうないんでしょうね。最後に読んで明確に感銘を受けたのが凪良ゆうの流浪の月で、それですらすでに一年前の本かあ、などなど。まあ普通に専門書とかは読まされる機会が多いし、文章を読む行為自体は頻繁にしてるんですが、読書ではないので、なんとなく満足感がたりませんね。

なんとなく、自分の読書年表みたいな感じで文章を書いてみましたが、なかなかいろんなことを思い出せていいですね。